「出来事」の本質。
昨日、×すぐに叶う→〇すでに叶っている
っていう記事を上げて、最後の締めのほうに
だから体験しようとする。
では、体験させているのは、一体だれ?
それを見たいと思っているのも、ワタシですよね。
いったい、誰が?ワタシ?が
「どうして望んでいるのか」っていうことなんです。
×すぐに叶う→〇すでに叶っている。
ていう文章を上げたんですが、
そもそも、誰が望んでいるのか?
なんて、
そこも、まだまだ、まだまだ、「自我(エゴ)」の部分。
そのマインド(自我(エゴ))の超えた部分は、私たちの本質
そこでは、「誰も望んでいない」
というのか、
望む者は、誰もいなかった。
本質と自我(エゴ)は別。
本質は、ただ、ありのままを観察している、
「スクリーンがある」
そこに、起きている。
理由は、ないのかもしれない。
仮に、理由は、あっても、特に意味はないのかもしれない。
ただ、そうで在るだけ。とかね。
とりとめのない文章ですが、シェアしたくて、アップしました。
今読んでいる本が、そのことを示唆していて、
読み進めていると、ああ、なるほどと、
知りたいところへ、近づいていく感じ。
考察が深まる感じがしました。
途中なので、またいつか、考察をシェアしたいと思います。
結局のところ、「出来事」の本質って、
そこには、
意味があるわけではないのかもしれないね。
意味を持たせたいのは、自我(エゴ)であって、
だから、そうなるようにしかならないのだったら、
コントロールすることは、不要だし、というか
そもそも、
コントロールできないし、
もしやりたくないことだったら、やる必要など、全然ないってことに氣づく。
コントロールして、うまくいった経験を
私たちは、少なからずいくつかその経験してることで
何かを達成した気分になって 自我(エゴ)が歓ぶ。
つまりは、その「達成感」をただ体験したかったりするだけなのかもね。
体験したいっていうのも、どこからやってきてるのか?
それこそが、本質的な望みであるだけのことかな~。
形を変えて、あれやこれやと、起きています。
この地球でのゲーム(体験)ほど、エキサイティングで、おもしろいものはないのかもしれない。
私たちが、いろいろ忘れてしまっていることが、このゲームを楽しむための秘訣だったりするからね。しばらく、その「忘却」設定が、最初に組み込まれていて、
ちょいちょい、「想い出す」ための「種」みたいな物語のストーリーを人生のいろいろなところにも、それぞれが仕込んでいて
それを体験する。
要は、「想い出す」為の、プロセスを踏んでいく。
それをすることで、より 本質的な在り方を徐々に想い出していく。
そんなゲームのような体験場になっているのかもしれないね。
それでは、今日も読んでくれてありがとう!